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日本の女子教育の先駆者・津田梅子 The Pioneer of Women’s Education in Japan, Umeko Tsuda

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こんにちは。今日は、日本の歴史上の人物の紹介をしたいと思います。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないんですけど、今年2024年の7月に、日本の紙幣のデザインが一新される予定なんです。お札のデザインが全て新しくなります。一新されます。

この私が持っている、今現在使われている紙幣では、千円札には野口英世、五千円札には樋口一葉、そして今ちょっと手元にないんですけど、一万円札には福沢諭吉という人物の肖像が描かれています。この三人の生涯、どんな人生を歩んだかとか、功績、何を成し遂げた人物なのかなどについては、以前こちらの動画にまとめてあります。中級の内容にはなるんですけど、よかったら見てみてください。

今回、デザインが一新されるにあたって、新たに三名の歴史上の人物の肖像が採用されることになりました。それがこちらの三人です。一万円札には渋沢栄一、五千円札には津田梅子、そして千円札には北里柴三郎という人物の肖像が描かれる予定です。皆さん、この人たちについて知ってますか。見たこと、聞いたこと、ありますか。日本ではとても有名な人たちです。

ちょっとこの三人が生きた時代の時代背景をお話しすると、三人とも1800年代の中頃、江戸時代の終わりですね、幕末の時代に生まれて、1930年頃、昭和初期に亡くなった人たちです。だから江戸時代、お侍さんの時代から、明治維新があって、明治、大正、昭和と、四つの時代を生きた人たちなんですね。日本が侍の時代から近代化していった時代を生きた人たちです。

一万円札のデザインに採用された渋沢栄一という人物は、「近代日本経済の父」とも呼ばれています。日本の近代化、そして日本経済の発展に大きく貢献した人物です。日本初の銀行を作った人としてよく知られています。そして、千円札のデザインに採用された北里柴三郎は、「近代日本医学の父」と呼ばれています。日本の医学の発展に貢献した人物です。この二人もとても偉大な、すごい功績を残した人たちなんですけど、今日の主役はこの人、津田梅子です。新五千円札のデザインに採用された女性ですね。

津田梅子はどんな人物なのか。一言で言うと、「日本の女子教育の先駆者」です。先駆者というのは、パイオニアのことですね。何かの分野で他の人の先を行くような人を、先駆者とか草分けと言います。津田梅子は、日本の女性たちの地位を高めるために、女子の教育に人生を捧げた人物です。東京に津田塾大学という名前の有名な女子大があるんですけど、津田梅子はこの津田塾大学の創設者、津田塾大学を作った人としてよく知られています。今日はですね、津田梅子の生涯についてお話ししたいと思います。

私は実を言うと、この津田梅子という人について、そんなに詳しくは知らなかったんですよ。本当に津田塾大学の創設者としてしか知りませんでした。でも、彼女のことについて、この動画を作るにあたって色々調べてみて、ものすごく尊敬すると思ったし、ありがたいと思ったし、私の好きな偉人、歴史上の人物の一人になりました。

津田梅子は江戸時代末期、江戸時代の終わりの1864年、今の東京に生まれました。梅子がまだ幼い頃、明治時代の初頭の話です。当時、黒田清隆という政治家がいました。この人は後に日本の総理大臣、首相になる人です。黒田清隆がアメリカを訪れた際、アメリカの社会を見てこんなことを思いました。[うん、日本もこれからアメリカのように近代化していくためには、男子だけじゃなく女子にも教育が必要だ。

この時代、日本はどんな時代だったのか、ちょっと時代背景を紹介すると、この頃は女性の地位がものすごく低かったんです。皆さん、「良妻賢母」っていう言葉聞いたことありますかね?この時代の日本では、良妻賢母こそが女性のあるべき姿、女性が目指すべき姿だと考えられていました。良妻賢母ってどういう意味かというと、まぁ漢字を見てもらうと分かると思うんですけど、良き妻、賢い母ということです。つまり、「女性の役割というのは、結婚して子供を産んで、良き妻として陰で夫を支え、賢い母として子供を立派に育てることだ」っていう当時の思想が込められている言葉なんです。今の時代、ね、この今の令和の時代にそんなこと言ったら大変ですよ。だいぶ時代遅れな考えですよね。でもその当時、梅子がまだ子供だった明治時代初期の日本では、それが当たり前でした。

女性というのは一歩下がって、男性に「はい、はい。」と従うのが当たり前。女性が社会に出て仕事をして自立するなんてありえなかった時代です。なので、女子に教育なんて必要ないと思われていました。もちろんその当時も教育を受けている女の子はいたんですけど、いたにはいたんですけど、でもそれはその子自身が社会に出て活躍するための教育ではなくて、さっき言った「良妻賢母になるため」の教育でした。良き妻、良き母になるための、教養やマナーを身につけるための教育だったんです。そんな時代です。

話を戻すと、そんな時代に黒田清隆は、日本よりも進んだアメリカの社会、アメリカの女性たちを見て、「ああ、日本もこれからアメリカのように発展していくためには、女子にも教育が必要だ。」と思いました。それで黒田清隆は、女の子をアメリカに派遣して、留学させて、アメリカの家庭に住まわせて、アメリカの生活を学ばせようという事業、まぁプロジェクトのようなものを立ち上げるんです。そのために、留学を希望する女の子を募集します。「誰か行きたい人いませんか?」と募集します。その募集を知った梅子の父親が「梅子、行きなさい。」と言って応募させるんですね。

梅子の父親の津田千という人物。彼はこの時代にしては結構先進的な、進んだ、新しい考えの持ち主でした。父親自身もアメリカに行った経験や、江戸幕府、江戸の政府ですね、江戸幕府の通訳を務めていた経験があったような人物だったんです。英語が喋れる人でした。そんな父親の勧めで、梅子はその留学生派遣事業に応募します。ちなみに梅子にはお姉ちゃんが一人いるんですけど、最初父親は、長女、お姉ちゃんの方をアメリカに留学させようとしてたらしいです。でも、お姉ちゃんが「私はいや。行きたくない。」と拒否したので、お姉ちゃんの代わりに梅子が応募することになったんだそうです。

そうして梅子は日本人女性初の留学生の一人として、1871年、アメリカに渡ります。渡米します。23日間かけて船でアメリカに渡ったそうです。なんと、これちょっと私びっくりしたんですけど、この時梅子はわずか6歳でした。梅子と一緒にアメリカに派遣された女の子はあと4人いたんですけど、一番上が14歳で、6歳だった梅子は最年少でした。すごいですよね。わずか6歳で親元を離れて海外に留学したということです。今みたいに簡単に海外に電話したり、メールを送ったりもできない時代にです。しかもその期間がまたすごくって。なんと11年間にわたってアメリカで教育を受けました。

アメリカではワシントン近郊のジョージタウンに住む、ランマン夫妻というアメリカ人夫婦のもとに11年間滞在しました。今で言うホームステイですよね。ホームステイにしてはちょっと期間が長いですけど。梅子は当時からとっても頭がいい、賢い、聡明な少女だったそうです。学校の成績もとても優秀でした。このアメリカ滞在中に梅子は、自分はこうやって留学して、レベルの高い教育を受けさせてもらってる、だけど普通の日本の女の子たちは、家の手伝いばかりで、教育を受ける機会や社会で活躍する機会がない、ということを知ります。それで「よし、将来私が日本で女の子のための学校を作る!」という夢を持つようになります。そして、そんな夢を抱いて17歳の時、11年間の長い長い留学期間を終えて日本に帰国します。

ちなみにちょっと余談ですけど、梅子は幼少期、子供時代をずっとアメリカで過ごして、しかもアメリカ人夫婦の元で育ったので、帰国した時には日本語を完全に忘れてしまっていたそうです。そしてその後、取り戻すのにかなり苦労したんだそうです。むしろ英語の方が母語のような感じで、日本語はずっと生涯片言のままだったそうです。片言というのは、たどたどしい、流暢には話せないということですね。日本に帰国してすぐの頃は、まぁお父さんは英語が話せたのでコミュニケーションが取れたんですけど、英語が話せないお母さんや兄弟たちと話す時には、お父さんが間に入って通訳をしていたんだそうです。

梅子は11年間アメリカで教育を受けてきて、「よし、今度は日本でその経験を生かして活躍するぞ!」というやる気に満ちていました。でも、いざ帰ってみると仕事はありませんでした。せっかく留学して色んなスキルを身につけて帰ってきたのに、女の子である梅子に与えられるのは家のお手伝いばかりだったんですね。留学先で学んできたスキルを生かせる場はありませんでした。当時の一般的な日本人と比べればかなり進んだ考えを持っていた父親にまでも、働くことを反対されてしまいます。梅子は失望します。がっかりします。当時、日本よりも女性の社会進出が遥かに進んだアメリカで長く暮らしてきた梅子は、帰国してみて、日本の変わらない現状にがっかりします。

帰国直後はしばらくそんな感じだったんですが、その後、なんとか仕事を見つけるんですね。華族学校と言って、当時の身分の高い家庭の子供たち、上流階級の子供達が通う学校に英語教師として採用されます。やっとアメリカで学んだスキルが活かせると思ったんですが、ここでも梅子は失望することになります。なぜかと言うと、生徒の女の子たちに全くやる気が見られないんです。当時の女の子が目指すものはなんでしたか?良妻賢母でしたね。まぁ、本人たちが目指しているというよりも、社会がそうだったんです。他に選択肢がなかったんです。「何かを学んでスキルを身につけて、社会に出て、仕事をして自立する」という選択肢がそもそもない彼女たちには、学ぶ意欲がありませんでした。学ぼうという気持ちがありませんでした。それに、それまでずっと女性は男性の決めたことに「はい。はい。」と従うのが当たり前という環境で育ってきた子たちです。主体的に自分で何かを考えたり、自分の意見を持ったりすることもありませんでした。そんな女子生徒たちの姿を見て、梅子はまたがっかりします。

そしてその後、周りの勧めもあって、梅子は再度留学を決意します。梅子はアメリカの高校までしか出ていなかったので、今度は大学に留学して、もっと専門的なことを学んでこようと決意するんですね。そして、1889年に再渡米して、ブリンマー大学というところで生物学を専攻します。そこでもとっても優秀な学生だったようです。なんかカエルに関する研究をしていたそうなんですけど、梅子の研究、そして梅子の執筆した論文はすごく高く評価されました。なので、実はブリンマー大学の教授からも、「このままアメリカに残って、大学に残って、研究を続けないか。」と研究者としての道を進められていたんですけど、梅子はそれを断ります。学校を作って女の子が教育を受ける機会を作って、日本の女性の自立を支援したいという梅子の願いは変わっていませんでした。なので「帰国します」と言って、1892年に再び日本に戻ってきます。ちなみに梅子は、ブリンマー大学在学中にも日本女性を支援するための様々な活動を行っていました。例えば、日本の女の子のアメリカ留学を支援するための奨学金の設立や募金活動、それから講演会なども行っていたそうです。

さて、帰国後の梅子、どうなったんでしょうか。夢は叶うんでしょうか。帰国後、梅子はまたしばらく華族学校、上流階級の子供が通う学校ですね、家族学校で教師を務めていたんですが、本格的に学校設立に向けて動き出すために、教師の仕事をすぱっと辞めます。学校を作るにはどうしても資金が必要ですよね。たくさんお金が必要です。梅子は一生懸命寄付金集めをします。寄付金集めに奔走します。アメリカ留学中に知り合った友人や先生などの協力を得て寄付金を集めます。

そして1900年、梅子が35歳の時、ついに「女子英学塾」という名前の学校を開講します。学校と言っても立派な校舎ではなくて、古い民家、古い家を借りてスタートしました。しかも生徒も最初はたったの10人だったそうです。女子英学塾ではそれまでの日本の女子教育のように、良妻賢母を育てるための教育ではなくて、社会に出て活躍できる女性を育成するためのレベルの高い教育が行われました。梅子は、女の子にだって学ぶ力がある、自分で考えて、仕事を持って、自立して生きていく力があるということを社会に証明しようと、一生懸命女の子たちを指導しました。実は梅子、かなり厳しい先生だったんだそうです。でも梅子の学校では、優秀な生徒たちがたくさん育って、評判が広まり、どんどん生徒が増えていきました。そして、多くの卒業生が社会に出て活躍しました。

日本女性の教育レベル向上のため、社会的地位向上のため、ずっとずっと奔走してきた梅子は、それまでの無理が祟ったのか、52歳の時に体調を崩してしまいます。それ以来、病院への入院、退院、入退院を繰り返すようになります。そして長い闘病の末、64歳の時に亡くなりました。亡くなった後も、梅子の意思はしっかりと受け継がれて、女子英学塾はさらに大きくなりました。そして1948年には津田塾大学と名前が変更されて、今も続く、とても有名な女子大になりました。ちなみに梅子のお墓はその津田塾大学の構内にあるんだそうです。

現代の日本では、男の子女の子関係なく、平等に学びの機会がありますし、女性も夢を持って自分の人生を生きられる、そして社会に出て仕事を持って自立できる世の中になってますが、まぁその礎を築いた、基礎を作ったのが、津田梅子さんだったんです。今日は、新五千円札に描かれる津田梅子という人物の生涯と功績を紹介しました。今日はここまでです。またね!

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